南スペイン、南房総での、おだやかな田舎暮らし「イシイタカシの世界」
寿司フィエスタで、村の将来を語り合う
 村の灌漑用水路について、まず話そう。
 アルプハーラ地方を含め、南スペインから地中海沿岸は、四月から九月までほとんど雨が降らない。南スペインでは、この乾期を乗り切るため、その昔から灌漑用水路が発達していた。砂漠の民であるアラブ人の七世紀にも及ぶ統治時代、厳しい母国の自然環境から学んだ治水の英知が生かされたのだ。アンダルシア地方は夏の太陽に恵まれ、水さえ得られれば作物の豊穣は約束される。農業には不向きな山岳地帯という土地柄でありながら、アルプハーラ地方に古くから人が住みついているのは、シエラネバダ山脈の雪解け水のおかげである。山は段々畑に耕され、少ない緩斜面に白い村が点在しているのも水があるからだ。その村々はアラブ人たちの遺産でもある灌漑用水路のおかげで、豊富な水を得て、幾世代にもわたって農業を営んできた。
 フェレイローラ村の灌漑用水路は、ふたつの水系の末端にある。ひとつはカピレイラ村などがあるポケイラ渓谷からの水系、もうひとつはトレベレス村があるトレベレス川の上流からやってくる水系。どちらもシエラネバダ山脈が源流であることには変わりない。
 この灌漑用水路の維持管理は、村人たちの普請によって毎年おこなわれている。畑を持つオレは、当然ながら参加しなければならないが、この十年来、畑をみてもらっている庭師ペペゴルドに普請役を頼んできた。ところがある年、足の怪我で彼の都合がつかず、オレが参加することになった。

 三月中旬、雨が降らなくなったころを見計らって、灌漑用水路の清掃に行くことが決まった。昼飯の弁当と水、それに鍬やらスコップを携え、長老役カルロスの指示に従い、何台かの車に分乗して目的地に向かった。朝の清々しい陽射しを浴び、まさにピクニック気分だった。車はポルトゴス村の先のトレベレス村に向かう街道と、主灌漑用水路が交差する小さな橋のたもとで停車した。なんと、そこには隣村アタルベイタルの住人が十人ほど待っていたから、合計二十数人の男たちが集まったことになる。
「分担はいつものようにする。アタルベイタル組は二キロ先から始めよう。それからフランシスコは、いつものように、先に歩きながら枝を払ってくれ。そうだ、イシーは初めてだから、おれと組んでしんがりを務めるか。じゃあ、始めよう!」
 一服する間もなく、皆は慣れた手付きで鍬やスコップを担ぎ、水のない灌漑用水路に散っていった。冬は雨期で水は必要ないので、用水路に水を引かずにそれぞれの水系の川に直接放流しているのだ。オレは体躯の大きなカルロスの後に、スコップを持って従った。
「皆は鍬を使って藻や草を取り払うから、おれたちはそれをスコップで用水路の外に投げだすのさ。簡単なことだよ」
 この作業、楽しかったのは最初のほんの一時だった。すぐにオレには過ぎた重労働であることが解った。用水路は幅二メートル、深さ一・五メートルほどあり、自然石を組み合わせて造ってある。あちこち土砂が堆積しているから、念入りに排除しなければならない。すぐに腰が痛み、手も痺れてくる。しかし、止めるわけにはいかないのだ。生まれて初めて味わった、体力の限界を超えた労働だった。結局、昼飯までの三時間で、土砂やら草などをスコップで用水路の外に放り投げだしながら一キロほどの距離を歩いた。昼飯と云われたときは、本当に救われた。皆さん、日溜りの草の上に座り、ズダ袋から大きなバゲットを取りだして手持ちの折りたたみナイフでふたつ割りにし、アルミホイルに包まれた生ハムや腸詰めのチョリソを挟んでかぶりつく。だれからか革袋に入った地酒ビノコスタが回ってくる。和気藹々、余裕の昼飯である。オレはへたりこむように座り、それでも元気をだしてアーミーナイフでバゲットをふたつ割りにし、缶詰のオイルサーディンを載せてトマトの輪切りとサラダ菜を挟んで食べた。飲み物はサンタパウラの泉から汲んできた天然ミネラルウオーターである。こんなとき酒など飲んだら、体が動かなくなる。食後、皆がオレンジやリンゴを食べているところはスペイン人らしかった。一時間ほどの休憩中、オレは死んだように寝てしまった。
午後の部もまったく同じように、スコップを使って土砂を投げ捨てた。もう記憶もなくなるほどの疲労感が襲っていた。ポルトゴス村の白い家並みがみえたときは、真実、助かった! と、心のなかで叫んだ。すべての作業が終わると、綺麗になった用水路を歩きながら引き返した。集合したところから車で向かった先は、ポルトゴス村の居酒屋である。こんな労働のあとで飲む地酒ビノコスタは最高、値千金である。つまみの生ハムもことさら旨い。ここで解散となり、長い一日が終って、無事村に帰ることができた。
 予期せぬ体験だったが、よい経験ではあった。それにしても心配なのは、普請に参加した男たちがほとんど六十歳を超えた高齢者だったことである。村の生命線ともいえる灌漑用水路の維持管理がこの有様では、将来に不安を感じる。十年後、だれがこの作業をしているのか想像すらできない。こんな危機感を持ったのは、オレだけではなかったようだ。
 マリベルが長老役代理を務めた夏、彼女の発案で若者たちに灌漑用水路の仕組みを知ってもらおうと、見学会が開かれた。夏休みとあって、早朝にもかかわらず十人ほどの若者が集まった。カルロスを先頭に、村の入口にある水車小屋跡の急勾配の坂道を登り、更に細い獣路を一列に並んで進んだ。乾いた大地を流れる灌漑用水路は、緑の縁取りで覆われ、遥か彼方の稜線へと消えていく。トマトとの相性抜群の香辛料オレガノは、こんなところにいくらでも自生している。登り詰めたところにわずかな平地があり、そこに直径十メートルほどの用水池があった。
「ここが一番大切な場所で、ふたつの水系から流れてきた水が注ぎこみ、この水門で村に流す水量を調整するんだ」
 カルロスは水門に付いているハンドルを回し、鉄の板が上げ下げできることをみせてくれた。水が不足してくると、村人立会いのもとで、取水口の開閉を確認し、時間を計って水量を決めるのだそうだ。各自の畑への水量は細かく取り決めがあったそうだが今では農作業に従事する村人も減り、以前のような村どうしの争いや、水泥棒が現れたりはしなくなった。用水池から村までの流れは、水車小屋跡を通り、フェレイローラ村への街道に添って進んでいく。水が必要でないときに、元居酒屋モリニージョの脇にある沢に放流するための水門のある場所も教えられた。村に入りこんだ水は、いくつもの取水口で枝分かれしており、鉄板で開けたり閉めたりしながら方向を決め、それぞれの畑に導かれてゆく。参加者のだれもが驚くほどの、素晴らしい構造になっていた。村人の祖先から受け継いだ、貴重な財産である。

 さて、話は変わるが、オレが普請に参加した年の夏、ゲストハウスで寿司フィエスタを催した。友人のパコヘスス村長は以前日本に五年間も滞在していたことがあって、大の寿司好きなのだが、軽々しくもオレが寿司を握ると云いながら、月日が経っていた。その年の春、行政区ラタアの村長選挙でパコは三期目の当選を果たしたから、お祝いを兼ねて約束の寿司フィエスタとなったのだ。ご招待のお客さんは、パコヘスス村長夫妻、ジャン、それにアレックスの四人だった。
「ようやく、イシーの握り寿司が味わえるね」
 パコヘスス村長は上機嫌である。ゲストハウスのキッチンはカウンターバーになっているから、対面サービスができる。なんとなく寿司屋にいる気分になる。
「さて前菜は、イワシの押し寿司になるけど、ワインはなににしますか?」
 答えるのは、やはりジャンだ。
「辛口の白ワインがよさそうだね」
「しっかり冷やした、サン・サドルニ・デ・アノイア村の白ワインを何本か用意してあります」
 その村はカタルニア地方にあり、スペイン産の発泡ワイン、カバの産地として有名だが、白ワインもきれのよい辛口でありながら、飲み口が柔らかい逸品がある。寿司との相性が抜群によく、握りの味を更に旨くしてくれる。イワシの押し寿司は木型を利用して作るのだが、イワシと酢飯の間にトロロ昆布を忍ばせてある。こんなことで、味がもうひと回り引きたつから不思議だ。イワシの酢漬けは南スペインではよく食べられ、居酒屋のタパとしては定番に入る。ただ、ワイン酢と白ワインを合わせ、ニンニクの微塵切りとイタリアンパセリを加えたなかにマリネするから、味わいは少々違う。しかし、食べ慣れたイワシの酢漬けに変わりはないから、スペイン人は比較的驚かないで食べてくれる。今日の客人は寿司を食べるのは初めてでないから、心配はなかったのだが。
「乾杯!」
 冷えたワインをひと口飲むと、皆さん小皿に醤油を注ぎ、練りワサビを溶き始めた。手慣れたもんである。
「やっぱりお寿司は美味しいねえ。それにイシーが作務衣姿で握ると、本物の寿司にみえてくるよ」
「本物の寿司だよ」
 アレックスがパコ村長の言葉に異議を唱えた。彼も今日の寿司フィエスタを楽しみにしていたようだ。
 主菜はやはり握り寿司である。ネタは鮪・鯵・鮭・アボカド・玉子焼き、それにしっとりした生ハムとフォアグラのペーストを用意した。気分だけは寿司職人。景気をつけて次から次へと握ると、奥さんのカルメンも喜んで食べてくれた。
「そういえば、カルロスから聞いたけど、この春、灌漑用水路の普請に参加したんだって? 皆感心していたよ」
「いやあ、あれは大変な作業だった。それに、スペイン人の豪腕振りをたっぷりみせつけられたよ」
「いつも土仕事をしている村人は特別さ。鍬やスコップの扱いはプロだし、あたりまえだよ」
 ジャンがオレをかばうように云った。いつも優しい男である。
「今の若者たちが、この普請を受け継いでくれるといいんだが…」
 普請の現状はだれもが心配している。
「それこそ村長の手腕のみせどころだよ」
 弱気なパコ村長にアレックスがひとこと云った。
「そのとおりだけど、きつい労働は若者たちの興味の対象外なんだよ。もちろん、灌漑用水路は村にとって必要不可欠な施設だし普請は必要だ。でも、普請は強制できないし、村にとって大事なことと、若者にとって大事なこととが噛み合わないのさ。今回の選挙は対立候補との票差がほんの十六票でしかなかったね。おれは愚直にも、「秩序ある村社会の発展」といった艶やかさのないテーマで村人に訴えたから、人気取りの政策に票が流れてしまったんだ。健全な村社会を望もうとすると、いつも現実とぶつかるよ」
「初めて村長に就任してまず、どこの村にもたくさんの木を植えたよね、あれはよかった。今では木も大きく育って、村を和ませているし、木蔭がまたいい」
 村長の弱気に、ジャンが彼の功績と感性のよさを褒め称えて励ました。
「そういえば、ピトレス村の入口に漁船とイカリが飾ってあるね、面白いけど、なんでなの?」
 寿司を握り、パコヘスス村長に差しだしながら聞いてみた。
「面白いかい? 村長に就任してまず考えたのは、行政区ラタアのなかでも性格のはっきりしないピトレス村をどう印象付けるかだった。そこで、村に伝わる昔話にヒントを得て、ラビタという漁村と交渉し、廃船を一隻譲り受けたのさ」
「その昔話ってどんな内容なの?」
「昔、神様にひとつだけ願いを叶えてもらえることになってね、ある村人が港が欲しいと答えたっていう逸話があるんだ。だから漁船を飾ったのさ」
「山村の入口に、漁船が置いてあるわけだから、旅行者たちには興味を湧かせるね」
 アレックが握りを催促しながら云った。
「はい! 特製フォアグラのパテ巻き、キュウリと合わせてあるからね」
「一期のときにゴミの収集を義務付け、二期では水道を整備し、各家庭にメーターを付けてお金を徴収しただろ、こんな当然なことが不興を買ったらしい。環境保全はなにより大切だし、水はタダではないのにね。それから、村の歴史的財産だから洗濯場跡や泉を修復したよね。でも、人によっては必要ないから取り払えという。今回、一番不人気だったのは、勝手に家を建てないように村の周囲をゾーニングし、景観や自然保護を優先させたことだよ。いつか村人に理解してもらえる施策だと、信じているけどね」
 ジャンが頷きながら話をつないだ。
「民意に従う。これ民主主義の大原則だよね。でも、ギリシャ時代にこんなことがあったね。民衆というか、何百人もの陪審員から死刑を宣告されたソクラテスの話。衆愚政治の結果だと云われているけど、この村にだって同じことが起き得るさ。また、政治家の資質については弟子のプラトンが含蓄あることを述べてる。「哲学者が君主になるか、君主が哲学を解し、政治と哲学を融合させなければならない」とね。今の世のなか、そんな簡単な図式で政治家は務まらないけど、哲学が真・善・美の追求だとするならば、政治家にとって必要な精神性だよ。村長職って実は大変に崇高な仕事のはずなんだ」
「なかなかいい意見だね。おれも大賛成だよ。それから、村長として村人の生活向上を目指しているわけだけど、一方で旅行者の眼をも意識している。それも、昔から営まれている村社会に興味を持つ旅行者にね。嬉しいことに、村と村を繋いでいた古い小路が今も残っていた。そこで思いついたのがトレッキング。道路標識を整え、地図を作り、村の紹介パンフレットとともに国営の観光案内所に置いてもらったんだ。おかげで、そんな旅行者が着実に増えている。景観が保たれた村の姿をみてもらい、それぞれの村を結ぶ小路を歩むということは小さな文化遺産の探検紀行と呼べないかい? 村を訪れるお客様が満足することは、村人も満足する環境にあるということだよ」
 今日の客人はよく話し、よく食べ、そしてよく飲む。カルメンも男たちの会話を楽しんでいるようだった。
「このごろ外国人の移住が増えてるね。廃屋や農作業小屋跡が買われ、リフォームされて住む、オレもそのひとりだけど、おかげで村の左官屋さんはどこも大忙し。若者の働き口が増えていることは確かだね」
「もちろんだよ。でも、こういう俄か景気はいつまで続くのかな? それより無秩序な乱開発のほうが怖いよ。そこのバランス感覚が村長としての采配かな」
「おれたちイギリス人にとっては、地中海沿岸の賑やかなリゾート地も魅力だけど、太陽燦々、それでいて静かな自然環境のなかでの田舎暮らしは、対極の魅力なんだ」
 アレックスの云うとおり、このごろ居酒屋アルヒーベに行っても、客の半分がイギリス人なんてときがあってその増えかたには驚かされる。
ジャンが空になったコップに、手酌で白ワインを注ぎながらぽつりと云った。
「アルプハーラ地方の村の姿といったらなんだろう? 農村の生活といったらオリーブやアーモンド、それにブドウ畑に村祭り、そして共同体として不可欠な灌漑用水路などの普請で営まれている。そんな本来の環境が壊れたら、旅行者にだって魅力はなくなるよ」
「農業の大切さはよくわかる。でも、今の若者は畑仕事を嫌うし、経済的にもなかなか自立し得ないのが現状だよ。なにか解決の糸口がみつかれば教えてくれよ」
「普請に参加して感じたけど、村は村人自身によって守られるのが自然だね。農業にも同じことが云えるけど、次世代への継承はやはり難しそうだ」
「村長自身が云うのも変だけど、行政が村におこなうサービスには限界がある。だから、村人自身が目覚めなければならないのかな。J・F・ケネディが大統領就任演説で云った「国民は国になにを望むかでなく、国になにができるかである」という言葉は、今でも立派に通用するよ。村の将来は、村人の自立心と郷土愛にかかっているのだけれど、それをなかなかいいきれないのが今の政治の姿さ」
 寿司フィエスタはまだまだ続きそうだ。でも、ネタは充分あるし、とっておきのデザートも用意してある。モチを焼いてふたつに割り、オリーブオイルと醤油を滲ませ、デザート皿の真ん中に置く。その上にハチミツを模様を描くようにたらし、白ゴマをまぶしてできあがり。さて、いったいいつになったらだせるのやら。
 灌漑用水路の問題から、村の将来まで話は広がっていく。あらためてこんな会話を楽しむ仲間をみると、スペイン人はパコ村長夫妻だけである。あとはイギリス人のアレックス、フランス人のジャン、そして日本人のオレである。村について、異邦人たちも含めて同じ目線で話し合う土壌が、もうここにはあった。
 フェレイローラ村は、近未来の国際村としての可能性を秘めた、実験集落とでも呼べないだろうか。
CLOSE
※絵・イラストなどの無断転載厳禁 Copyright(C) Ishii Takashi All Rights Reserved.